クラウド・アトラス:Movie of discord

★★☆☆☆

ゼロ年代に生まれた原作を映画化した、6つのエピソードから成るクロスジャンル・ムービー。監督の一人であるトム・ティクヴァは自ら「クラウド・アトラス六重奏曲」という曲を書き、約3時間に渡って交差するその物語の中でモティーフを変奏させて作品全体のテーマを浮かび上がらせようしているが、残念ながらその試みはウォシャウスキー姉弟との合作によって失敗しているように感じられた。
およそ合奏曲というものはみな、各プレイヤーの個性を衝突させながらも、曲全体を貫くテーマを奏するために、互いの音色・音律・アーティキュレーションを調和・綜合させていく不断の苦しみなくしては「美しい演奏」の歓喜には到達し得ない。その意味において、この「クラウド・アトラス」はどうだったか? エピソード間のトーンやピッチ、リズムは不調和のまま、映画は安易に「移動する」「逃げる」「戦う」といったシーンや状況の関連性だけで繋ぎ合わされている。そして、物語全体を貫くテーマ(主旋律)となるべき「既存のシステムや価値観からの解放*1」については、原作を再構成したプロットに沿ってただ演出されているだけ、ただ演じられているだけだ。何よりも残念なことは、劇中を通して変奏されていくナイーヴな「クラウド・アトラス六重奏曲」(無名作曲家の6重奏曲が交響曲化されていること自体がそもそも不自然だ)のサウンドが、ティクヴァの思い入れに反し、各エピソードにおいて単なる色付けの映画音楽の域に留まっており、物語全体を支配し、観客の心に響くような強い衝撃性や革新性といったものが感じられなかったことだ。

これがもし、様々な時代の人生模様を描くというオムニバス的な映画であったなら、『10ミニッツ・オールダー』のような手法、つまり6つのエピソードに対して6人の監督で描くという手法が有効だったろう。しかし、本作のように「輪廻」的な時代を超えた連関を奏でようとする作品において、指揮者たる監督が多いのは果たして正しい選択だったのか? 「システムからの解放」を描くために『マトリックス』のウォシャウスキー姉弟をワーナーが起用する一方で、解放と真逆の耽美性に着地してしまう『パフューム』のティクヴァを共同監督としてプロジェクトに参加させたことが、この作品に不幸な不協和音をもたらしたと思う(もっとも、個人的にはむしろウォシャウスキー姉弟なしの、退廃と文藝の香りで咽せ返りそうな『クラウド・アトラス』の方を観てみたかったが)。

監督・脚本ラナ&ウォシャウスキー, トム・ティクヴァ, 原作デイヴィッド・ミッチェル, Cloud Atlas, 172mins, 2012。

*1:6つのエピソードで、奴隷制度、師弟関係やヘテロセクシャル、巨大利権産業、金と暴力、クローン再利用システム、宗教等々からの解放が描かれている