ゼロ・ダーク・サーティ:映画を殺した者への、映画による復讐

★★☆☆☆

2001年の米国同時多発テロ「9.11」は世界を変えた。TVで流された、ハイジャック機が世界貿易センタービルに突入し、炎上し、そして崩れ落ちる、あの一連の凶暴なリアルタイム映像。世界を牛耳ってきた者に対する強い敵意と反発が突然可視化された「9.11」の出来事は、その映像的衝撃性もあって人々の思考を一気に止めてしまった。「まるで映画のようだ」「信じられない」と絶句する者たち。あまりにも醜悪すぎる現実は奇妙なカタルシスさえ生み、それを生業としてきた商業映画界をも麻痺させてしまう。ハリウッドとアメリカ人がこの衝撃をようやく直視できるようになったのは、同じく凄惨なアイルランドの事件を描いた『ブラディ・サンデー』の監督ポール・グリーングラスを招聘して撮らせたドキュメンタリー・タッチの『ユナイテッド93』以降だったと記憶しているが、それでもすでに「9.11」からは5年の歳月が経過していた。その後、暴力表現に歯止めが利かなくなったハリウッドは『ノー・カントリー』や『ダークナイト』などの作品を生んだものの、どのような大掛かりな虚構もあの「9.11」の衝撃の前では霞んで見えた。そして2011年5月。かつての英国軍の拠点であり、今はパキスタン将校の養成所となっているアボッターバードの地に潜伏していたとされるオサマ・ビン・ラディンが米軍のコマンド部隊に射殺されたというニュースが世界を飛び交った。姿を見せず、人々の記憶の中から忘却されつつあった「9.11」の亡霊が突如として甦り、風化しつつあった歴史はまた息を吹き返した。


米国による復讐劇を描いた本作は、冒頭から「9.11」の生々しい記録音声を流すブラックアウト画面から始まり、あの日の観客に衝撃を思い出させる。この導入部から続く激しいCIAの拷問ルーティンの描写を繰り返すことで、「9.11」の首謀者ビン・ラディンの足取りを掴めない米国政府の焦りをビグローは冷ややかに描いていく。もちろん敵は人間として扱われない。2003年にはブッシュ政権イラク侵攻を行ったが大量破壊兵器は存在せず、CIAへの批判が相次いだ。成果の出ないミッションに疲れ果てた元責任者は現場を去り、ケーキを焼くなど油断の見られた同僚は基地内の警備を解いて爆死する。それらはもちろん現実の証言に即したものだろうが、すべてはビン・ラディンの連絡係を追う主人公マヤの執念を際立たせるために選ばれたドラマ仕立ての要素だ。そして気がつけば、マヤ自身が拷問ルーティンの執行者としてテロリストの敵意を惹き付ける標的となっていた。映画の中盤から後半にかけて、ビグローの過激な演出はエスカレートしていく。連絡係の携帯の電波を捉えるサスペンス的なくだりや、赤い文字(繰り返されるテロによる流血を彷彿とさせる)でボスの部屋のガラスにミッションの遅延状況を毎日書きつけるマヤの苛立ちぶりの描写などは、来るべき暗殺劇のクライマックスを正当化するために観客に次々と配られる甘い飴のようなものだ。言うまでもなく、米軍コマンドSEALSの前で見栄を切ってみせるマヤの姿や、ステルス仕様のブラックホークで敵地に侵入する映像に至っては、見慣れたハリウッド映画以外のなにものでもない。ジェロニモ作戦は決行され、アボッターバードの豪邸内に展開した男たちは「9.11」の首謀者ビン・ラディンとその側近を殺害し、死体袋に詰めて帰還する。正義という名のもとに強行される復讐。行っていることは、テロリストの唱える聖戦と同じ人殺しだ。


最後のシーンでマヤは問われる。「このデカイ飛行機(=世界を支配している権力の象徴)を独り占めして、お前はどこへ向かうのか」と。もちろん答えなどない。アメリカはもはやどこにも行けないのだ。ミッションを果たしたマヤの頬を伝う涙は、復讐の連鎖で再び流されるであろう血の涙を予感させる。飛行機の(見えない)衝突で始まった物語は、飛行機の(見えない)離陸でひとまず幕を閉じる。映画を殺した者への、映画による復讐。だが、次の報復がないと、誰に断言できるだろう。

監督キャスリン・ビグロー, 脚本マーク・ボール, Zero Dark Thirty, 160mins, 2012。