ハウルの動く城(4)

※今回の話はネタばれですので、映画を未見の方はご注意ください。

ハウルの動く城」のサントラを聴いていて、ちょっとしたことが気になった。映画のクライマックスの場面で流れる曲が、サントラでは実際の映画よりもはるかに長い尺で収録されているのだ。他の曲はあくまでも映画の各場面とほぼ対応しているのにもかかわらず、である*1。これは制作中に存在していた後半場面を宮崎監督が最終的にカットしてしまった結果なのか、それともチェコから招いたケイマル氏の演奏をサウンドトラックではじっくりと聴いて欲しいというサービス精神の表われなのか。この曲はとりわけ映画の構造と深く関わっているため、何か他の理由があるのではないか、と考えてしまう。

以下、映画の内容に触れてしまうが、この「星をのんだ少年」という曲はソフィーがハウルカルシファーの契約の秘密を知る重要な場面で効果的に用いられているもので、彼女の帰りを待っていたハウルと再会する場面の直前まで流される。映画では二人の再会の場面は足早に描かれ、慌ただしく次の場面に転じてしまうが、この曲の後半部分に対応するカット(例えば、ハウルが少年時代からソフィーを待ち続けた時の長さを感じさせるような描写)がなかったのは惜しまれる。が、クリティカルな問題はその後だ。漫画的なドタバタは確信犯的な演出なので良しとして、最終部分で描かれるエンディングの規模が前の場面に比べるとあまりにも小さく、取って付けた感が否めないのだ。監督は「広げた大風呂敷を畳む」と表現しているが、これが本当に“畳んだだけ”のエンディングなのでどうしても物足りなさを感じてしまう。最近の宮崎作品はエンディングがあっさりしている(そのこと自体に不満はない)が、今回の「ハウル」に関しては結末の描き方に大きな疑問が残った。サントラの白眉でもある「星をのんだ少年」を聴いていて、つくづくそう思う。

*1:サントラのオープニング曲冒頭のオルガンは飾りなので、これは除く。