社会の入り口としての親

適応できない日本人たち

いわゆる学力・知力みたいなものは大人になってもいろんな機会があって努力次第で伸びるものだと思うんですけれど、この4ヶ月で感じたのは、「机に向かう体力・集中力」みたいなものは、もうちょっと早い段階で決まっちゃっているのかも、ということでした。なにしろみんな堪え性がなくって、すぐヘタって突っ伏している。居眠りではないんです。普通に身体を起こして、講師を注視・傾聴する体力がないんですよ。 それはこちらの授業が興味をひくものではないからかも知れませんが、それにしても幾人かはある程度は興味を持っているようなのにでも目がトローンとしてグターッとなって話なんか聴けないようになっている。 

東京女子大横浜市立大の講師氏のボヤキより。単位取得のためだけに講義に出席し、学問を身につける意欲のない学生たち。モラトリアムや自分探しといった言葉が広まって久しいが、どうやら今の学生の魂の抜け具合はさらに先を行くようだ。彼らにとって、問いとは常に答を用意されているものであり、義務教育のノリのまま、吸収力の高い貴重な時期を無為に過ごしてしまう。だが、この時期に相応の忍耐をもって自分の論理を磨いておかなかった人間は社会に出てから悲惨なことになる。というより、周囲に多大な迷惑をかけることになる。一緒に仕事をしてみればすぐに分かることだが、少し柔軟な対応と創意工夫を要するような仕事を前にすると、彼らはすぐパニックに陥ってしまうのだ。景気の回復で新卒組の就職がバブル時並に楽になり、大企業や終身雇用への安易な回帰が強まる半面、仕事が肌に合わないと称して転職を繰り返す者や鬱病となって退職する者が増えているというのは、労働環境や社会の価値観の変化もさることながら、今の高等教育機関が学生の問題解決能力を鍛える場になっていないせいでもあるだろう。となれば、こうした制度を作りあげ維持してきた連中は誰なのかという話にもなるが、そうしたモグラ叩きの議論に入る前に、もう少し今の学生について考えてみることにしよう。

しかしやはりあの日本人学生たちを見ていると無力感に襲われます。それを企業勤めの友人に言うと、「まだ精神的に子供だから、自分がなんの知識や技能も身につけないでいると、社会に出てとんでもないことになるのがわからないのじゃないか。」と言う。 

自分も最初はそう考えていたんだけれど、でもどうもそうではないようである。だって、「このままではあなた方は社会に出て、なにも市場で競争力がある財を提供できないので、大変なことになるよ。」という警告自体が、難しくて理解できないとか、ピンと来ないということはないと思う。彼らは妙に得体の知れない不安感だけは大いに感じているようである。 

こうした不安感を払拭するために、多くの学生がインターンや就職に有利なゼミ活動、資格のための勉強をしてはいる。だが、それもまた用意された答に過ぎない。確かに資格は将来の仕事に役立つ可能性がある点では「知識や技能」にあたり、短期的にも有効な対策だと思われがちだが、土台なきところに鉄筋を建てるとやがて建造物がどうなるかは言うまでもないことだろう。人生においては、ショートカットが必ずしも本人の幸福と結びつくとは限らないのだ。それはこちらの動画などでもよく分かるだろう(蛇足だが、環境問題についてはこちらのエピソードを一見することをお薦めする。非常に良くできたアニメーションなので、誰でも感覚的に理解できると思う。どちらも最終的な答ではなく、考えるための出発点である)。
では、教える側はどうすればよいのか。学ぶことと同じく、こちらも地道な努力しかないのである。以下、オーソドックスな試みを提案している人がいるので紹介する。
ペンもノートも持ってこない学生の指導法

ペンを忘れる、ノートを忘れる。最初はびっくりするかもしれないけれど、次回からは、そういう学生もいるんだな、とわかっている。わかっていて、何もしないというのは、私にはピンときません。

ペンと紙があっても、何も書かない学生もいる。私なら、紙はこちらで配って、授業の最後に提出させます。「半分以上、何か書きなさいよ。半分、書いてなかったら出席点あげないよ」とか何とか、そういうインセンティブも与える。

でも、先生が黒板に書いたことしかノートに書けないという学生が大半かもしれない。であれば、ノート指導をする。ノートの見本をプリントで配る。とりあえずそれは二つ折りにして隠させる。授業は90分を3分割して、20分毎に、「ハイ、ここまでがノート見本の1番ね。自分のノートと見比べてごらん」という。

そして「抜けている部分があったら、自分のノートにも書き写しなさい」と指示する。1時間の授業で3回練習できるので、ゴチャゴチャ説明しなくても、だんだん感覚がつかめるようになってくる。なお、消しゴムは基本的に使わせないこと。誤字の修正はいいけど、全体の修正は禁止します。

小中高で12年間も大勢の先生方が一生懸命に教育して現状程度なのだから、一朝一夕には何も変えられない。だから、みんながこういうことを指導していく。指導仲間を増やしていく。

学生のプライドなんかより、こういうことの方がずっと大事だと、私は思う。

これは本来、親が教えておくべきことではないのか。子供に自由に考えさせることと、自由にさせることは異なる。(建前として)○×式教育に対する反省から生まれたゆとり教育が成果を上げられず、モラトリアム教育の延長とでも言うべき後者に留まっている現状を鑑みるに、親のモラトリアム化、つまり、教師や塾に子供を預けて安心し、我が子に《学びの姿勢》ひいては《生きのびるための術》を教えず放置している家庭の側にも大きな問題があることは明らかだろう。教育はまず家庭から始まるが、その親が役目を果たさなければ、そのしわ寄せは第三者に向かうのである。大学でペンを持参する必要性やノートの取り方まで教えていたら、本題の学問に必要な指導の時間などいくらあっても足りなくなる。

補習塾で私は、きれいに削った鉛筆を20本用意していました。子どもが返却した鉛筆を、休み時間に「お疲れ様。さようなら。はい、さようなら。じゃあまた来週ね」などと帰っていく生徒たちに挨拶しながら、ていねいに削る。すると自然に、忘れ物は減っていきます。

最初は、鉛筆を貸してもブスッとしています。無言で手を突き出し、返却するのです。「はい、どういたしまして」と受け取る。そのうち、一人の子が「先生ありがとう」といって返す。それを見て、少しずつ変わっていきます。

ご家庭で指導すべきことでしょうと幼稚園に見放され、これくらいは幼稚園でしつけてほしいよと小学校で見放され、小学生じゃあるまいしと中学校で見放され、もう義務教育じゃないんだよと高校で見放され、いい大人じゃないかと大学で見放される。こんな連鎖は、福耳さんが止めるしかない。

私が教えた中でも、とうとう高校受験の当日に筆箱を忘れた子がいました。いち教師が奮闘しても及ばない領域は大きい。けれども、教育に魔法はありません。淡々とやっていくしかないと思います。

こういうことに大人も子どももない。小学生でも中学生でも高校生でも大学生でも、書くものがないなら教師が貸す。それだけです。次回も忘れたら、また貸せばいい。「来週こそは、ちゃんと持っていらっしゃい」と、何度でもにこやかに語り続ければいい。

どうにも改善が見られなければ、その理由を探求していきます。ときどき、こうした些細な兆候から何らかの障害や病気が発見されることもあるようです。

子供が文句を言っても見捨てず、世間を渡っていく力(もちろん、学ぶ力や考える力も含まれる)を忍耐強く授けていくのは、本来、親の努めである。教育者(特に初等教育の教師)が人格者でないと務まらない理由は彼らが親代わりになるケースもあるからだが、それも程度の問題だろう。

「そんなんじゃ社会で生き残れないぞ」って脅すより、みんなが楽しく暮らせる社会を作っていく方がいい。日本人は、少しずつ、そういうことをやってきたんじゃないかな。

これも親がまず範を見せるべきものだとは思うが、人間関係が人を育てるという意味では、すべての人が意識すべき言葉かもしれない。
さて、ここまで述べてきたことをひっくり返すようで恐縮だが、もっとも重要なことを最後につけ加えたいと思う。すなわち、こうした教育制度の問題をいざ離れて自分たちのことを考える時は、「自分が馬鹿なのは親のせいだ」とか「人生がうまくいっていないのは親の育て方が悪かったからだ」とは考えてはならないということだ。常に責任転嫁ばかりしている人間は、他者(自分の子供も含む)を育てることも、自分自身を成長させることもできないのである。
※いつにもまして堅苦しいエントリになったので、最後に息抜きをひとつ。この技で学生が講義にペンを持っていく気になるなら、それもよかろう。