チベットの核問題

orpheus2008-04-20

【4月26日の聖火リレー出発式について】
4月26日に善光寺境内で開催される予定だった「北京2008オリンピック聖火リレー〈長野〉」の出発式について、18日、諸般の事情により会場提供を辞退させていただくこととし、同日、聖火リレー長野市実行委員会へその旨申し入れました。(信州・善光寺

巨額の放映権料や招致を巡ってのバラマキ合戦――金権体質化が指摘され、「平和の祭典」の五輪精神は失われたと非難されて久しい、今日のオリンピック。その第29回夏季大会となる北京五輪を控え、国威掲揚にかける中国当局の力の入れ方はかつてのベルリン大会*1や東京大会*2を彷彿とさせるものがある。今回、長野県の善光寺が五輪の聖火リレー出発地点を「辞退」した件については、その開催の直前という絶妙なタイミングや、苦労して宗教色を薄めているオリンピックの運営方針に反する形で仏教徒側だけの言い分を突出させてしまったこともあって物議を醸している*3が、宗教の話はさておき、現実問題として中国の支配下に置かれているチベット地政学的な立ち位置を考えるときに、やはり無視できないのは核の問題だろう。

かつてインドと中国間の平和的な緩衝地帯だったチベットは、今では少なくとも30万の軍隊と、核ミサイル部隊の4分の1以上を擁する軍事的要所になっている。1971年、中国は最初の核兵器チベット高原に持ち込んだ。現在、中国はチベットを自国や他国の核廃棄物の投棄場として使用しているようである。1984年、中国核燃料総公司は、西側国の核廃棄物施設に1kgあたり1500米ドルで提供した。

中国の核施設の近くに住むチベット人や家畜の不審な死亡が報告されており、また癌発症や出生障害などの増大も報告されている。さらに、水質汚染が発生し、中国人の地域住民には水の使用に関し、公式に警告が発せられたが、チベット人住民には一切伝えられなかった。中国は、チベットの壊れやすい生態系や土地の公正な居住者達になんの配慮もなく、チベット高原を占領し続けている。

(ダライ・ラマ法王日本代表部事務所「現在のチベットの状況」)

中国当局やインド政府には「核兵器の拠点あるいは核廃棄物の肥溜めとしてのチベット」「それを黙認することで互いの領土分割を保証し合う中国・インド」という既成事実が「チベット独立」をめぐる運動へと発展、覆されることへの強い危機感がある*4。大抵の人間は、自分の一部と見なしているものが奪われそうになるとそれを死守しようと行動する。中国人にとって、北京へと続く聖火リレーに対する妨害活動は、中国主権への許し難い挑戦以外の何ものでもない。それは会談するたびに北方領土を返せと日本側に迫られるロシア人と同様、国内に強い反発を引き起こさざるを得ない。ダルフール紛争をめぐる国際的な圧力や、祖国を奪われたチベット亡命者による一連の抵抗運動は、国家プロジェクトとして五輪を成功させるべく焦っている“アジアの虎”中国をじわじわと追い込みつつある。もっとも、大半の中国人は当局に情報操作されていない自由なネットワークにアクセスできないため、こうした国際的な反中運動の高まりなど知るよしもない。その偏った状態で、例えば北京五輪への反発が日本で起きていると中国国内で報道されたら、彼らはどんな反応を示すだろうか。いつの時代でも、全体の状況を知らされていない民衆は権力に操作されやすい*5。一方、上記のようなチベットの核事情や五月四日*6が近いことを考慮し、日本のメディアも無邪気に聖火リレーの問題ばかり煽らず、もっと本質的な問題を取り上げて報道する必要があるだろう。
ダライ・ラマ法王日本代表部事務所

*1:いわずとしれたプロパガンダの祭典。ヒトラーが女流監督レニ・リーフェンシュタールを起用して撮影させた『民族の祭典』(1938)は、20世紀がいかなる世紀であったかを考える上で重要な資料となっている。なおベルリン大会から始まったこの聖火リレーの情報が、後のドイツ軍のバルカン半島南下作戦に利用されたとする説もある。近代オリンピックが「平和の祭典」であった期間は意外と短い。

*2:東京オリンピック名神高速首都高速東海道新幹線など大型建設プロジェクトのラッシュをもたらした、いわばゼネコンの祭典でもあった。当時の日本は戦後復興が最大の関心事で、成長至上主義の影で多くの公害が発生していた。半世紀前の日本は、今の中国とさほど変わらない汚染まみれの国だったのである。

*3:善光寺の辞退を「英断」と見なす好意的な反応が多いようだが、聖火リレーへの妨害行為の防止やチベット仏教徒への同情などによって、五輪の抱えている構造的な問題へのフォーカスが拡散霧消してしまった点は残念である。善光寺前から予定通り聖火が出発し、何もないまま無事にリレーが行われるのが、石原都知事あたりがかねてより主張している「日本の民度の高さ」を証明するのに一番だと思うのだが、もはやその民度を証明する機会は失われてしまった。

*4:今回、共通の政治的利害を持つインド政府は中国側に配慮し、聖火リレーをインド市民から遠ざけて実施した。

*5:太平洋戦争中、日本の多くの国民が大本営発表を鵜呑みにし、戦争の経過について翻弄された。

*6:いわゆる中国側でいう「五四運動」記念日。反日反帝国主義運動による排斥運動が中国の国内外で高まる日である。