お楽しみはこれからだ――村上春樹の“森”を遠く離れて

orpheus2009-03-13

「小沢問題」週刊ポストが指摘した 政治と司法の利害一致とは

小沢が「やましいところは何もない」と突っ張れば、特捜部は、お得意の新聞記者へのリーク戦術で、小沢ほど悪い政治家はいないという世論を作り出そうと懸命になる。(中略)

(ポストや朝日と同様、検察に批判的な)文春も、小沢よりも『西松建設』と親しい二階俊博経済産業相の疑惑に力を入れている。また、オフレコ懇で「これが自民党議員に広がることはないと思う」と発言した、漆間巌官房副長官に批判の矛先を向け、ジャーナリストの上杉隆氏も、小沢が政治資金の透明化を図り、公開するなどの努力をしてきたのは確かだとして、「小沢氏はそういう政治団体をほとんど排して、献金元から、ダイレクトに政治資金管理団体陸山会)に金を入れるようにしたのだ。こうして透明化したことが今回の結果を招く遠因になったのは、皮肉というしかない」とやや同情的。 

'93年に小沢が自民党を飛び出した時、'94年に連立政権が崩壊した時、'97年の新進党分党の時、'00年の自自公連立解消の時、'03年の民由合併時、そしてまた今回も同じことが繰り返されている。時の政治権力と癒着した大手マスコミによる再三の「小沢潰し」報道は、日本の既得権益者が“チェンジ”を回避してきた「負の歴史」として後に語られることになるだろう。昔、一世紀半前の幕末期に、地方の革新派と中央の保守派の一部がギリギリのところで妥結し、日本は世界史上類を見ない究極の“政体チェンジ”を実行し、かろうじて日露戦争で勝利することで列強の仲間入りを果たした。しかし、それから続く慢心の時代、軍部の傀儡政権となった政体は自己批判のみならず他者による批判をも法的に回避するに至り、勝ち目のない世界規模の消耗戦に突入、大本営発表で国民の目を欺き続け、日本は“植民地化”の憂き目に遭った。そして世紀が変わった今、この“第二次世界恐慌”ともいうべき危機の最中に、依然としてこうした大本営発表=国策リーク報道に多くの国民が惑わされ、今後日本が世界で生き残るために必要な“チェンジ”=税金を私物化する官僚機構、形式だけの議論しかできない立法府、民意をくみ上げず経団連*1と宗教団体の代弁組織でしかない現連立政権、大手マスメディアとの馴れ合いによる情報操作といった現行の“利権システム”を解体・再構築する大掃除――本来ならば、それは冷戦の崩壊した'90年代に済ませておかねばならなかった日本の宿題なのだが――をいま選択・実行できなければ、“世界の工場”の地位に続いて、日本は早晩“先進国クラブ”のシートをも失うことになるだろう。そう、ウォルト・ディズニーが言ったように「現状維持では後退するばかり」なのである。
しかし、まだ希望は残っている。ネット上の言論は(特に日本のそれは)まだまだ未成熟ではあるが、大きな“チェンジ”の原動力となる可能性を秘めていると思う。少なくとも、現行の“利権システム”に組み込まれ、内部から自己批判のできなくなった“死に体”のマスコミを外部から批判できる自由を(限定的とはいえ)持っているメディアといえば、現時点では個々の書き手によるブログしかないだろう。広大なネットの世界で自分の声は無力だからと、個人の意見を発信する努力を怠ることはたやすい。既存メディアや既得権益者による干渉や圧力を恐れて知らぬふりをするのも簡単だ。こんな話がある。最近、作家の村上春樹がネットの言論を脅かす発言をした。村上といえば、他ならぬパレスチナで高い壁を築いているイスラエルから賞を贈られて、殺人者から美酒を受け取りながら「我々はシステムと呼ばれる堅固な壁の前にいる壊れやすい卵」で「システムが我々を食い物にするのを許してはいけない」という既得権益批判の「正論」を述べてしまうような商魂たくましい人物であるが、今度はその舌の根も乾かぬうちに「ネットの正論が日本をダメにする」という既得権益擁護の発言をしているのである。「システム」を批判するポーズしか取らない“米国の作家”村上春樹の、ノーベル賞をうかがう微妙な立ち位置は分からなくもないが、「ネットの正論が日本をダメにする」という既存メディア=壁の向こうの連中を喜ばせる村上の主張は、日々ネットから生まれる多様で自由な意見を頭ごなしに全面否定する忌むべき考えであり、全くいただけない。もちろん、村上を擁護する意見があってもよい。必要なのは、異なる意見が併存し、呼吸できるということだ。言論の自由とは、「賛成」「反対」「賛成のポーズ」「反対のポーズ」「どちらでもない」といった主体的で多様な意見を互いに発信できることがシステム的に保証されているということに他ならない。しかし既定路線が行き詰まって“チェンジ”が求められている現在のような状況では、時の権力から与えられた情報を上から下へと無批判に伝えたり、システム側の意向に従って自分の“言葉”を放棄することよりも、ネットで上見かけるような青臭い理想論や「正論」の方がはるかに健全で好ましいと思う。そもそも、そうした「正論」をかざして夢破れた学生紛争後の社会に漂っていた「喪失感」を飯の種にして、多くの悩める若者たちをハメルンの笛吹よろしくデタッチメントという名の“無気力の森”へと連れていった恥ずべき作家は一体誰だったか? しかも、村上の非難する「正論」と、彼がその作品で再三描いてきた「喪失感」への引きこもりを象徴する現状容認の気分=「そういうものだ」は、コインの表と裏のように背中合わせの関係にあった。そこに村上の偽善性を感じてきた私としては、多様性を尊重しつつも、次のような立場をとらざるを得ない。すなわち、まだ生まれてから日の浅いネットという荒々しい世界に小さな花がようやく咲こうかという時に、古い世界を支配し君臨している権力者たちが難癖をつけて規制をかけ、監視し、出る釘を打って牛耳ることに、私は断固反対する。既得権益村上春樹を守る古く高い城壁に、新しい卵が次々と投げつけられていく。脆い卵は割れてしまうだろうが、壁は累々たる卵により、次第に新しい色に塗り替えられていくだろう。「卵を割らねば、オムレツは作れない」。そう、お楽しみはこれからなのである。
村上春樹「ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思う」
toroneiさん、それは本当に違うんだよ
ミスチルを目指して終わるな──坂本龍一かく語りき

*1:戦後行われてきた、トヨタなどの巨大資本を優遇する政策が富の集中とリターンの不均衡、輸出依存構造を招き、格差の拡大と税収の悪化をもたらしている。