虚栄に走る女たち

先回のエントリ「金儲けに狂う男たち」の続き。
さて、金儲けに狂っているのは何も男たちばかりではない。最近はMixi等のSNSが詐欺の温床になっているが、ネットでアフォリエイト中毒になり、情報商材ネズミ講に手を出す女性も少なくないようだ。欧州では長い時間をかけてフェミニズムの理論が形成されてきたが、何事も表層的であることが好まれる日本ではその上澄みだけが輸入・消費され*1、男女は異なるがゆえに補完しあうべきだというまっとうな視点*2は無視されてきた。日本では男社会からの解放(男にとってかわる強者としての女)という反動的イデオロギーとして女性学が成立してしまったため、その影響で「私は自立した女なのに、どうして幸せじゃないのだろう」と自問する女性は後を絶たない。負け犬の遠吠えがあれほど売れた理由は、ただ単にクロワッサン育ちの30代独身女性が仕事に疲れてボヤいたというより、現代においても結婚や育児といった実績が女性の世界では絶対の価値を持つ(評価される)という当たり前のことを男の側からではなく、婦人公論のおばさんでもなく、当事者たる妙齢の女性*3が認めたからに他ならない(認めたくないものをシブシブ認めたという点では酒井順子クワトロ・バジーナと同じである)。
かくして転向を希望する30代女性が結婚市場に大量に出現するようになった訳だが、ある程度稼いできた女性(男よりも仕事を選んできたぐらいなので大半は堅気で真面目である)と釣り合う男が市場にそう都合よく残っているはずもない。気がついた時には時すでに遅く、皆が魅力的だと認める物件は若さだけが取り柄じゃなかろうかと思われるような小娘たちに売約済みであり、出産限界年齢を考えると、妥協して年収等の条件を下げるか、バツイチ等も含めて掘り出し物を探すかしかない。なお、男は基本的に独りでものを考えたがるため、自分以上に論理的な女性(例えば、バリバリに仕事ができるキャリアウーマン)は恋愛対象というよりは潜在的なライバルであり、結婚対象とは捉えない傾向が強い(もっとも、最近は女々しい男も増えているので実際はこうも単純ではない)。これはTVドラマでもうんざりするほど取りあげられている、お馴染みのテーマでもある。
と、脱線しすぎたようだ。虚栄に走る女の話をしようと思っていたのだが、フェミニズムのところからおかしくなった。話を戻そう。男にとってかわる女(男<女)という80年代以降の広告代理店や女性誌などの言説が売るための方便だったことが女性の側から提示されるようになり、また昔の男尊女卑的価値観(男>女)に戻ることもできない以上、結婚にせよ何にせよ、フォローしあう関係(男=女)でなくては長続きしないのは明らかである。フラットな関係は相互理解の上に成立する。となれば、男は女のおしゃべりや買い物につき合う必要があるし、女は男のノンリニアには生きられない幼児性を受け入れる必要がある。そこでは関係をより良くするために、両者の差異を尊重するとともに、欠点を指摘し修正することも求められる。当然、プラダやヴィトン、エステや美白に夢中になって我が子を放置する行為は否定されるだろうし、仕事や金儲けに没頭して家庭を顧みない行為もまた同様に否定されるだろう。つまり、彼女が虚栄に走ったり、彼が金儲けに狂っているのは、フラットな男女関係を築くというまっとうな人生ゲームからの安易な逃避なのである、とかろうじて虚栄っぽい話に繋がったところで終了。

*1:日本で最も声のデカいフェミニストといえば間違いなく上野千鶴子だが、彼女にしてさえも「本質主義は危険」と否定しておきながら「女性学は女性の特権」という同一性に絡め取られてしまっているあたりに(皮肉ではなく)女性の論理の限界を覚える。この限界こそ実は女性の最大の武器だと私は《経験的に》感じているのだが、論理が商品であるアカデミックの世界に生きる上野にそんな事を言ったら間違いなく殺されてしまうだろう(読者諸君、ここは笑うところです)。

*2:なぜこの視点が正しいのか。女性は女性のみで生きていけない以上、他者である男性とどうしたら関係を良好に保つことができるか、という命題がフェミニズムに課せられているからである。この命題を無視して田嶋陽子のように「女は女であるだけで偉い」的な議論に留まっているフェミニズムは男女関係を破壊する、単なる感情論に過ぎない。

*3:「負け犬」執筆当時、筆者の酒井順子は35歳。酒井はこの年齢を「現代人が成人になる年齢」と主張する。