朽ちた砲台

TVは朝から岩手の震災報道。東京では副都心線が話題になっていたが、新宿は先週『アイゼンハイム』を観に行ったばかり……ということで、趣向を変えてお台場に海を見に行くことに。とはいえ、半世紀も持たなそうなフジテレビ本社ビルや無機質なレインボーブリッジにはあまり興味はなかったので、黒船の再来航に備えて作られた品川砲台の史跡を見てのんびり過ごす。ペリーの来航直後に大急ぎで築かれたこれらの砲台が火を吹くことは結局なかったが、翌年再び現れた黒船はこの砲台の十字砲火を受けることを恐れて横浜へと踵を転じた。あの瞬間、確かにこの砲台は、ハリネズミのように身を固め、じっと息を潜めていた江戸幕府のハリとなって、アメリカに明確な“NO”の意思表示をしたのだった。この砲台は大正時代に東京市に払下げとなったが、もしこの頃に日本が違う道を選択していたら、どんな歴史になっていたのだろうか。史実では、大政奉還を経た日本は列強の仲間入りを目指して大陸へと進出、清朝中国やロシアと激突したが、国力を無視した無理な背伸びは長くは続かない。小さな国力で世界規模の戦いを継続するための長期的な戦略やそのためのシステムを欠いたまま日中戦争から世界大戦へと突入した日本。その防衛圏は太平洋戦争開戦の翌年から縮小の一途を辿っていく。制空権を失って国内工業施設への絨毯爆撃を許し、沖縄の陥落で資源供給地たる大陸への海路を完全に遮断された日本にもはや勝機はなかった。時は流れ、日本は焼け野原から奇跡的な復興を遂げたが、オリンピックの開催を目標に官民合同で開発を推し進めたその強引な手法とかつての大陸進出の熱気と何が違うというのか。実際、戦後から今日に至るグローバルな経済戦争において、日本はふたたび同じ過ちを繰り返している。湾岸地帯を覆うバブルの香りで息が詰まりそうな今の台場を前に、草に覆われた砲台はもう何も語らない。