いざ鎌倉

orpheus2008-09-15

天候を気にしつつ、朝から湘南新宿ラインで鎌倉へ。鶴岡八幡宮では毎年好例の流鏑馬イベントの前日ということで、武家の狩装束を身にまとって騎乗した面々が若宮大路を闊歩し、堂々たる馬達を観光客に披露していた。東の鳥居を抜けると、曇り空の下、頼朝の墓は山中に質素に佇み、かの兄弟の悲劇などまるで夢幻のごとく、深く重い静寂が辺りを包んでいる。踵を返して段葛を途中で折れ、小町通りを南下すると、鎌倉彫りや濡れ煎餅の店々が軒を連ね、京都とはまた異なる古都の風情に浸ることができる。同じ古都であっても、武家政権が築きあげた鎌倉の街には軍団や騎馬隊が動きやすい、虚飾を廃した剛健な道が多いように感じる。
六地蔵の頭数を確かめながら道を西へと進むと、混雑する街並みが海光山の手前に見えてくる。長谷観音前で折れ、高徳院を臨む土産店*1で床に寝そべった大人しい三毛猫を見つけ、しばし時を忘れて愛でながら古都の歴史に想いをはせる。奈良の大仏は勅命で建設されたが、鎌倉の大仏は民衆の浄財で造られたという*2。民力の先駆けとなるような話だ。その大仏が造られた建長4年(1252年)は、後嵯峨天皇の第三皇子・宗尊親王が皇族としてはじめて征夷大将軍となって鎌倉に下向した年でもあり、それは既定路線となっていた源氏の衰退を決定づけたとともに、幕府内に天皇家の継承問題という火種を抱え込む構造が深く組み込まれ、後に国を揺るがすことになる南北朝の動乱を暗示させる契機となった年でもあった。
外国人観光客で溢れる大仏の見物もそこそこに切り上げ、裏手にある与謝野晶子のいかにも浪漫的な歌碑*3を一瞥し、鎌倉随一の名刹長谷寺に向かった。台風が北上しつつある所為か、あいにくの曇り空で眼下の由比ヶ浜も霞んで見える。だがその幽寂とした景色が枯れた寺にはまた実によく似合う。立体的な庭園や阿弥陀如来より、無数の地蔵がこの寺を訪問する者には強い印象を残す。これは鎌倉の寺に限った話ではないが、例えば大黒堂に設置してある大黒天は本尊ではなく*4、レプリカに向かって懸命に布施したところで御利益は薄いように思われる。頼朝の曰くつきの厄除阿弥陀薩を足早に拝観し、身を屈めて蝋燭の揺れる弁天窟(これも弘法大師参籠だという。)をくぐり抜け、長谷寺を後にした。
そこから江ノ電に乗り、稲村海岸を過ぎて江ノ島へ。島への歩道の途中でお世辞にもトークが上手いとはいえない大道芸人に捕まって予定が狂ったものの、夕暮れとともに江島神社*5まで何とか辿りつく。急な傾斜になっている階段で息を切らしつつ、ふと脇に目をやると、鈍く瞳を光らせた雄々しい黒猫が御影石の横に鎮座していた。猫は人が近づいても逃げもせず、そうかといって人に甘んじる態度も見せなかった*6江島神社はもともと多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)、市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)、田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)の三女神を祀っていた神社だった*7が、次第に仏教の影響力が及び、江島弁財天となって今に至っている。昼間の訪問であれば他の二宮や石屋も見て回りたいところだったが、今日の旅はここまでである。頼朝の子、三代将軍實朝が建設した辺津宮のみ参拝し、生白州の味見ついでに足を休め、波の音を聞きながら真っ暗な道を歩いて本土側に戻った。そこからは三菱重工業湘南モノレールに揺さぶられながら、大船経由で帰ることにした。

*1:エクスカリバーを販売している武器マニアの聖地、「山海堂商店」である。

*2:最初は木造だったが、後に嵐で大破し、金銅で再建されている。

*3:鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな

*4:宝物館に保存されている大黒天はオリジナルで応永19年(1412年)の作という。

*5:江島神社は海運や漁業のほか、芸道上達の功徳を持つ守護神として知られる。

*6:捨て猫が多かったせいか、江ノ島には猫を保護する文化が生まれ、いつの間にか猫天国になってしまったらしい。

*7:江島神社は広島の厳島神社や福岡の宗像大社と同神だそうだ。