スターウォーズ エピソード3

orpheus2005-06-25

★☆☆☆☆
A long time ago in a galaxy far,
far away . . . .
続編が作られるたびにCGの技術と反比例して輝きを失ってきた本シリーズ。それでも、アナログ技術を総動員してVFXの可能性を模索した初代スターウォーズ(Episode IV: A New Hope)には確かに胸躍る何かがあった。それは初代をパロディにした“Space Ball”の出来の良さが逆説的に証明していると思う。いずれにせよ、増殖するスピンオフを本家が取り込み、喜んだファンはさらに盛り上がる――スターウォーズの世界はこうして拡大再生産を続けてきた。もちろん、絶えざる拡張を宿命づけられたルーカスの遊園地は次のアトラクションも抜け目なく準備していたのである。
(以下、ネタバレ)
旧三部作を支持した世代が親となり、その子供たちが育つまで待っていたルーカスは、若き日のダース・ベイダーを主人公に据えた物語を発表する。今さらワイプアウトもないだろうとゲーマーから馬鹿にされ、駆け落ちすらしなくなった今時のティーン・エイジャーにアナクロな恋愛劇だと笑われようと、ルーカスは動じない。なぜなら、スターウォーズという世界の創造主はルーカスその人であり、そこで何をしようが彼の勝手なのだ。だが、何をしてもよい、何でもできるという思い上がった心は人をダークサイドへと導く。そして原作者自身をも飲み込んでしまうのだ。悲劇になるならばどんな描写をしても構わない、悪を悪として執拗に描けば善は輝いて見えるだろうと考えたルーカスは、本作「シスの復讐」で決定的な一線を越えてしまう。「マスクをかぶった悪いオヤジも若い頃は悩んでいたのさ」と言い訳しながら、ジェダイの子供たちを惨殺し、アナキンを溶岩でこんがり焼き上げて旧師を罵倒させ、孕ませたパドメには何の希望も与えず、用が済むと遠慮なく命を奪う。以前のルーカスだったら、こんな描写を良しとしなかっただろう。
スター・ウォーズという物語自体が黒澤明の『隠し砦の三悪人』をパクって作られたことは有名な話だが、新シリーズの質の低さは、要するにパクった物語のさらなるパクリであるからに他ならない。旧三部作に比べると俳優のセリフは生気を失い、CGになったヨーダは腐った魚のような眼をしている。民主主義を登場人物に語らせる件は実に安直、C-3POR2-D2の掛け合いに代表されるユーモアのショットもろくに挟まれず、最後までベタな悲劇とおぼしきショットの羅列だけで唯我独尊の自己反復の世界が展開されていく。最後の5分に至っては「いかに初代スター・ウォーズが素晴らしかったか」をルーカス自身が臆面もなく語るためのショットでしかなく、物語をスタート地点につなぐための構成としては一番避けたい野暮な形である。浦山監督も言っているが、哀切をいくら重ねても痛切を描くことはできない。このような作品は悲劇とは呼ばないのだ。痛くも痒くもない悲劇性を模したCGのデモンストレーション映像の単なる羅列。世界で一番金をかけた道楽がいかに虚しいものかを本作は証明してしまった。映画の方が出来の悪いスピンオフに成り下がってしまったのだ。今や討たれるべき悪はダース・ベイダーではなく、神話を自ら裏切って醜態を晒してしまった原作者の方なのかもしれない。見終わって、ルーカス自身に「オーダー66」を実行せねば……と感じたのは何も私だけではあるまい。
私が愛した“神話”は平凡な物語へと転落してしまった。だからこそ、あえてこの言葉で締めくくろうと思う。
May the Force be with you !
(2005,アメリカ)