ダヴィンチ・コードを観る前に

orpheus2006-05-28


先日のルーブルに関するエントリーへのアクセスが増えている。どうやら映画『ダヴィンチ・コード』関連で流れ着いた人が多いようだ。フランス政府の全面協力もあり、映画はルーブル美術館の宣伝のような出来になったとも聞く(ハリウッド映画に便乗するとは、文化大国フランスも墜ちたものだ)。さて、その『ダヴィンチ・コード』だが、日本では苦戦を強いられている模様。もっとも、クリスマスの意味さえ知らない観客に予備知識なしでこの手の作品を理解を求めるのも無理な話である(『パッション』の時も凄惨な映像ばかりが話題となり、観客には理解されなかった)。映画についていく自信のない人は、とりあえずキリスト教の“常識”として次の内容だけは把握しておいた方がよいだろう。ローマ帝国の時代、エルサレムの地にイエス*1という名の宗教家*2が存在し、彼の周りには12人の有力な弟子と2人のマリアという女性*3がいた。イエスは人々に魂の救済と愛を説いたが、彼の思想はあまりにもリベラル過ぎたため、為政者や保守派の人々から糾弾され、十字架で磔となり処刑されてしまう。しかし“神の子”であるイエスは死の3日後に救世主(キリスト)として復活*4する。そしてイエスは来るべき神の裁きを約し、天へと還っていった。これがキリスト教聖典(聖書)の核となっている話である。聖書の記述には矛盾や混乱も見られるが、ほとんどのクリスチャンはイエスが独身だったと信じている。なお、マグダラのマリアに関しては、ヨーロッパ(今でいう南フランス)に渡ってその生涯を終えたという伝承があり、この“マリア信仰”と“聖杯伝説”(キリストが最後の晩餐で用いたとされる聖杯をめぐる宝探しの物語)が混ざり合い、中世から今日に至るまで様々な“作り話”が生まれた(『ダヴィンチ・コード』もこうした話の一種である)。
あとは、ルネサンスの天才レオナルド・ダ・ヴィンチが、当時絶対的な権力を誇っていた教会に対する様々な“挑戦”を自作の中で試みていたこと*5なども、本作を観る前に押さえておくとよいと思う。
さて、問題は映画を楽しんだ後である。特にキリスト教と縁が薄いこの国では、エンターテイメントとして作られたこうした作品を鵜呑みにする困った人々がどうしても出てきてしまうのだ。しかし、周りに害を及ぼさない限り*6、信仰の自由は保障されなければならない。くれぐれも信仰する人々を揶揄するような態度だけは慎みたいものである。

参考:モナ・リザの秘密(話としては面白い)

*1:昔の表記ではイエズス。なお、実在したイエスは絵画に描かれるような白人ではなかったと推測される。

*2:エスユダヤ教の大胆な改革を試み、その死後、弟子達によって原始キリスト教が確立された。その後、宗教対立に頭を悩ませたローマ帝国キリスト教を国教に認定・保護。ローマ帝国の崩壊後もローマ法王の権威は肥大化の一途を辿り、台頭してきたイスラム教との激突や、宗教改革による新旧派の対立を経験しつつ、ヨーロッパ諸国の覇権拡大とともにキリスト教は世界中に広がっていった。

*3:エス処女懐胎した聖母マリアと、弟子のようにイエスから可愛がられたマグダラのマリアの2人。聖書には他のマリアも登場するのだが、通常、マリアと言えば聖母かマグダラのマリアのことを指すと言ってよい。

*4:クリスチャンがキリストの復活を祝うイベントがイースターである。なお、クリスマスはイエスの誕生を祝う日であって、プレゼントの交換(各自がささやかなプレゼントを持ち合い、それを分け合う)やケーキ等はあくまでも副次的なものにすぎない。日本の“クリスマス商戦”など論外である。

*5:レオナルドは「岩窟の聖母」で幼子キリストの頭上に光輪を描かず(当然、教会からはクレームを受けたので光輪のあるヴァージョンも作った)、「最後の晩餐」ではイエスの愛弟子ヨハネを女性のような姿で描いている(これをもって、レオナルドが女性崇拝的、もしくは男女融合的な嗜好を宗教画の中に忍ばせたとも言えなくもない。ただし、弟子のヨハネは伝統的に美しい青年として描かれることが多く、レオナルドもその伝統に従って描いたとする考え方が美術史では一般的である)。

*6:ローマン・カトリックがその長い歴史の中で異端狩りや十字軍を推進したことなどに対する批判は当然あるだろうが、それはあくまでも過去の話。現在の世界で最も危機的な状況を生み出しているのはアングロサクソン系の超大国である。彼らが石油の利権を求めてイラクで行っている振る舞いは十字軍の再現といってもよい(その要請に応えて自衛隊を派遣している日本は相当危険な橋を渡っていることになる)。