ゲド戦記

orpheus2006-07-29

★☆☆☆☆
見始めてすぐに「これはゲド戦記じゃない」と感じた。なるほど3巻や4巻の設定こそ引っ張ってきてはいるものの、中身は「シュナの旅」である。親の七光り云々という批判はさておき、これほど半端な内容のまま公開することをよくあの親爺が許したものである。もっとも、宮崎駿以外にまともなホンを書ける人間がジブリにいるとも思えない(そうした人材を育ててこなかった、あるいは育てられなかったツケが回ってきた訳だが)。いずれにせよ、スクリーンに映し出された作品は惨憺たるものだった。気高いファンタジーはすっかり地に墜ち、「目に見えぬものこそ」というキャッチコピーも空回りしている。周囲の助言どころか、自分のことで手一杯の若き王子の姿は初監督の宮崎吾朗その人といってもよい。世界の均衡を崩しているのが人間ならば、とってつけたような野良仕事の場面でお茶を濁してみせるのもまた人間である。原作者のル=グウィンが映画化に当たって宮崎駿鈴木敏夫に投げかけた懸念は図らずも的中してしまった。自分自身の愚かさを含め、人の業を見てきた大賢人ハイタカ(ゲド)の言葉に重みを持たせるためには、経験不足の息子ではなく、宮崎駿の方がどう考えても適任だった。映画化は自分の手でやりたかったと宮崎駿が原作者の前で吐露していたにも関わらず、この大作を“素人”の息子に任せた鈴木プロデューサーの責任はあまりにも重い。本作を観て、宮崎吾朗には他人の作品(「ゲド戦記」)の名を借りてエコロジストを気取るのではなく、まずは身内である父親の作品(「シュナの旅」)を素直に映画化しゼロから腕を磨いて欲しかったと感じたのは何も私だけではあるまい。政治家に限らず、才能の乏しい二世や三世がもてはやされる時代である。アニメーションの監督が二世であっても別におかしくはない。宮崎の下で働いてきた人材の中から才能ある監督が育たなかった現実を受け入れ、ジブリ宮崎駿の“後”のことを考えて息子にブランドを引き継がせようとしているだけでも、カリスマの引退と共に消えていった他の多くのアニメ制作会社よりはまだマシなのかもしれない。なお、他のジブリ作品の例に漏れず、主題歌(テルーの唄)だけは高い水準にあったことを付け加えておく。
(2006, 日本)
第63回ヴェネチア国際映画祭上映時の『ゲド戦記』に関する評価(wikipediaより):平板なスタイル、創造性に欠けた絵で、それはリアリズムの上に成り立つファンタジーに供する想像を生み出すことを放棄している(ウニタ紙)/アニメーションはスムーズで、緻密なキャラクターデザインではあるけれども、吾朗の映画は父親の映画における創造性と物語性芸術の高みには達していない(ファンタジー・マガジン)

鈴木プロデューサーに聞く(YOMIURI ONLINE)