ツリー・オブ・ライフ

★★★★☆

まずは配役。'50年代の保守的な南部の街で成功することを夢みつつ、子供たちに厳しく当たる父親を演じるにはブラッド・ピットは華がありすぎるし、雰囲気的にも若すぎる。もともとクセのある変人を演じるのが得意な俳優なだけに、キャラが立ちすぎて映画が描こうとした“神の代理としての厳格な父性”との乖離が激しく、登場人物の中でも一番浮いている印象を受けた。そして音楽。創世記や生命の誕生を想起させるシーンで、画面の“空白”を恐れて必死に埋めるべく流されるクラシック音楽の使い方はあまりにも安易で残念だった(特にスメタナシューマン)。なお、音楽家をめざしていたピットがオルガンを弾いたあとで「自分は音楽家になれなかった…」と息子に告白する場面が出てくるが、大バッハが厳格だったのは対位法など音楽の構造に関してであり、家庭ではよき父親だったのは有名な話。この場面は、それを踏まえた上で「ピットは偉大な音楽家だけでなく、良き父にもなれなかった」ことを仄めかしている。

本作を再見する機会があったので、劇中で用いられている音楽を中心に気がついたことなど。まず、創世記や生命の神秘といった創造者(=神)を感じさせる場面にはタヴァナーなどの宗教音楽が用いられており、本作がキリスト教をモチーフとしたテレンス・マリック版の『天地創造』であることが分かる(クライマックスに至ってはベルリオーズの「レクイエム」が丸ごと使われている)。冒頭では「聖俗の選択」のテーマが宣言され、主人公の母親が粗野な《俗性》と交わる運命にあること、また母子二代に渡って父親に服従する運命が示唆されている。そして、その《俗性》を体現している父親のブラッド・ピットが「ここは他人の家の敷地だ。絶対に越えるな…」と息子を脅かす場面ではスメタナの「我が祖国」が大音量で流れ、やがて来るべき他者(父親や弟も含む)との境界線争い=衝突の可能性が仄めかされる。また、奏者に何度もやり直しをさせた指揮者トスカニーニのエピソードも《父性》への服従のモチーフを強調している(ただし、劇中で実際に流れるブラームス交響曲トスカニーニ指揮のものではないようだ)。それに対して、海外出張で父親が不在のあいだ(=鬼の居ぬ間)に訪れる、息子たちと《聖性》の体現者である母親だけの無邪気で幸福なひとときには、クープランの「神秘的なバリケード」が効果的に使われている。そして、これらの回想シーンをノスタルジーで包み込む、通奏低音としてのシチリアーナ。息子の記憶のなかでは、母親は樹の上に居たり飛び上がりさえするが、父親はいつも庭(=地面)ばかりを弄っている。もちろんこれも《天と地》の対比である。やがて大きくなった息子は、ビルの狭間にある樹(息子はそれを見て、生命の樹ツリー・オブ・ライフを想起する)や高層ビル(=地面から天をめがけて人間が築いたバベルの塔の寓意。そびえ立つ煙突のある工場で父親が働いていた描写も出てきた)の上に広がる青い空を意識しはじめ、疎遠にしていた父を許し、オフィスのある高層ビルを上へ上とあがっていく。しかしその人工的な空間は行き止まりで、ビルを逃げ出した息子は、青空の向こうにある天国の弟や母親へと想いを馳せていく。限られた命を持つ者に科せられた不可能性と欠如の美しさ。その不完全性の美しさがゆえに、私はこの映画を深く愛するのだ。

監督・脚本テレンス・マリック, The Tree Of Life, 138 mins, 2011。